どろろ 第十ニ話「ばんもんの巻・下」感想
今回の満足度:5点(5点満点中)
(以下ネタバレ)
あらすじ
遂に邂逅した百鬼丸と醍醐景光。
景光は百鬼丸を「生まれ損ない」と罵ると、始末しようと兵を差し向ける。
が、百鬼丸は矢の雨を物ともせず、無事に逃げおおせる。
一方、百鬼丸が自分の兄であることを知った多宝丸は、母を問い詰める。
すると、その場に景光が現れ、「我が子を鬼神の生贄とした」ことを認めてしまう。
当然、人の道に背く父母の行為に怒りを顕にする多宝丸だったが、景光は領主として我が子を犠牲にしてでも国を守ったのだ、という道理を覆せるのかと、逆に多宝丸を問い詰める。
一方、助六と共に朝倉に捕らえられてしまったどろろは、脱出の機会を窺っていた。
その最中、朝倉の兵から「醍醐の国は化物の国」だと聞かされ――。
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感想
原作の景光は、自らの欲望のために百鬼丸を生贄に捧げていた。
いざ、百鬼丸と対面すると、親心と罪悪感が顔を出し、真実を告げぬまま百鬼丸を士官させようとするなど、ある種本アニメよりも人間臭い人物として描かれていた。
だが、本アニメの景光は、今回描かれたように「地獄絵図のような国の有様を、我が子を犠牲にしてでも救おうとした領主」だ。
そこに「私(わたくし)」はなく、領主という一つの機能であろうと、人心を捨てている。
多宝丸も縫も、その景光の修羅の如き生き方を尊重するしか無く、苦悩しながらも百鬼丸に犠牲になってもらうことを決めてしまった。
決して、自らの欲望のためではなく、全ては大義の為に。
――しかし、琵琶丸が感じた剣呑な雰囲気や、最後に光を失ってしまった観音像の姿からは、彼らの修羅の選択が更なる災いをもたらすことになるのでは、という雰囲気を感じる。
「大を活かすために小を犠牲にする」と言えば、いかにも「大義」に思えてしまうが……相手は人を食らう鬼神だ。
琵琶丸が目にした「辛うじて封じられている鬼神」。
それが、縫の嘆願によって解き放たれてしまったように見えた。
……そもそも、鬼神達が景光の訴えに耳を傾けたのは、自分達や最後の一体の鬼神が自由になる為だったのではないだろうか?
観音像から光が失われたのは、最後まで信心を捨てていなかった縫や、心優しき青年であった多宝丸が、実の子、実の兄の犠牲を容認するという修羅の道に堕ちたことで、観世音菩薩から見放されたことを意味しているのではないか、と思える。
ある種の悪魔は、人々の願いを叶える代わりにその魂を食らうという。
一時の安寧を与えられた醍醐の国の人々だが……最後には鬼神に魂まで食われてしまうのではないだろうか?
その一方で、百鬼丸は今回も、どろろによって鬼へ堕ちる前に救われた。
親からも弟からも見捨てられた彼が、それでも人の心を捨てずにいられれば、あるいは鬼神に対する切り札になるのかもしれない。