たこわさ

アニメやゲーム、映画・本などのレビュー・感想・情報を中心にお送りする雑多ブログ。

輪るピングドラム 24「愛してる」感想

(以下ネタバレ)
数の限られた「実りの果実」は全ての人に与えられる訳ではない。
ある者は力に任せて強引に果実を手に入れ、またあるものは偶然――あるいは「運命」によって果実を手に入れる。
力無き者や「運命」に選ばれなかった人々に「実りの果実」が与えられる事はない。
かつて、「実りの果実」を得た冠葉は、得られなかった晶馬にその半分を分け与えた。
それによって生き延びた晶馬は、その果実をこどもブロイラーで「透明な存在」になろうとしていた陽毬と「一緒に食べる」事で、結果的に陽毬を救った。
限られたパイ(=果実)を奪い合うのではなく、手に入れた一切れのパイを分け合うが如き絆で結ばれた冠葉・晶馬・陽毬。しかし、元々一人分だったものを3人で分かち合う事には、当然の事ながら限界があり、どこかでツケを支払う必要があった。それが「陽毬の死」というツケの代償――運命を歪めた事への「罰」ということか。
既に自分達の果実を分けてしまった冠葉と晶馬には、最早陽毬を救うことは出来ない。だからこそ冠葉はサネトシの甘言に乗り世界――つまりは果実を奪い合う人々そのものを壊そうとし、晶馬はその残酷で受け入れがたい「運命」に膝を屈しようとした。
その運命を覆す為の存在が「ピングドラム」と「運命を乗り換える呪文」だった。
ピングドラムが具体的に何を指すのか、作中の限られた描写から判断するしかないが、それは人間の命運そのものだったり、あるいは他者に与える無償の愛であったり、自らを犠牲にして他人の命運を救う行為そのものだったりを指すのではないだろうか?
そして恐らくは桃果の「運命を乗り換える呪文」も同じく「自己犠牲」による他者の救済、「愛による死」を具現化した存在なのではないだろうか。
陽毬は晶馬へ、晶馬は冠葉へ、それぞれ分けてもらった果実を返し、冠葉は最終的にそれを陽毬へ「分け与える」のではなく「全て捧げた」。
「運命を乗り換える呪文」を唱え、陽毬を救おうとした苹果。業火に包まれ「世界からいなくなる」筈だった彼女の身代わりになったのは晶馬だった。「これは、僕達の罰だから」と。

ありがとう――愛してる

ゆりと多蕗は語る、「予め失われた子供」が幸せになるには、誰かの「愛してる」の一言が必要だと。
やはり「予め失われた子供」であった苹果。いくつもの間違いを重ねた後、「誰かを愛する」事を知った彼女だが、彼女自身はまだ「愛してる」という誰かからの言葉を得ていなかった。そんな彼女だからこそ他者――陽毬の幸せの為に己を犠牲にするという「運命」を迎えた。
だから、そんな彼女を救うには――「幸せ」にするには――「愛してる」の言葉が必要だった。最後の最後で告げられた晶馬の本心が、苹果を救う唯一無二の言葉であり、二人の別れを意味する言葉でもあった、というのはなんという皮肉か――だが、きっとそれゆえに純粋な愛でもあり。
「運命の乗り換え」が済んだ世界。冠葉と晶馬のいない世界。世界の誰もが――陽毬までもが二人の事を「知らない」世界においても、二人の存在の残滓は確かに息づいている。真砂子の見た夢、陽毬に残されたメモ、宮沢賢治について談義するどこかで見たような二人の少年、――そしてペンギン達。
きっとこれも、一つの「ハッピーエンド」の形に違いない。

総評

――とりあえず真面目モード終了つーか晶馬×苹果のカップルが大好きだった私は最後のほうずっと心の中で泣いてましたわ!! まあ、「限られた数の果実」しかない世界において、あの結末を迎えられたことは、上記の通り「ハッピーエンド」の一つの形には違いないと思いますが、それでもやっぱりなぁ……。
閑話休題
さて、現実と観念と虚構と妄想を意図的に一緒くたにして描いた本作は、間違いなく「観る人を選ぶ」作品では有りましたが、それでもあえて声を大にして「名作」と評するに値する作品であった、と思います。
私はこの作品から「現代世界への警鐘」だったり「人を愛する事の大切さ」だったりをひしひしと感じましたが、全く違う感じ方をした方もいることでしょう。ですが、ある意味それが作り手側の意図なのかもしれません。
決してセールス的に成功する作品ではないと思いますが、それでも人々の心に「何か」を残す意欲作であったと思います。本当にご馳走様でした。