たこわさ

アニメやゲーム、映画・本などのレビュー・感想・情報を中心にお送りする雑多ブログ。

ブログ文化の弊害、あるいは散々語りつくされたテーマ

もう数年前になりますが、複数の方が「ブログ文化の隆盛で、『サイト』よりも『記事』が注目される世の中になってしまったな」といった意見を述べておられました。もっと言うと「誰が何を書いたか」という視点が希薄になり、「そこに何が書いてあるか」ばかりに注目してしまう人が増えたんじゃないか、というある種の危惧を抱いていたかと思います。
それら意見に全く同感だ、と思いつつも私自身、「記事」のみに気を取られて「誰が書いているか」に全く気が回らなかったケースも多く経験していて、ブログという文化は便利な反面一部の人間のお馬鹿さを増幅する負のパワーアンプなんじゃないか、と思ったり自己嫌悪に陥ったりしたものです。
そんな私の想いとは全く関係なく、世の中には「匿名ブログ」なる奇天烈極まりない存在まで流行り出し、最早私の分析能力の限界を超えたところにあるんだなぁ、等と怠惰を気取る昨今ですが、それでも未だに危惧していることが一つあります。
それは、『「誰が何を書いたか」という捉え方が出来る人はまだまだいるけれども、「誰が何をどのような意図で書いて、どんな結果をもたらしたいのか」という視点から記事を分析する人は物凄く少ないんじゃね?』という事。
例えば、ある医療問題に対する記事が注目されたとして、その記事の筆者が現職の医師であることが判明した場合、恐らく「医者の言っていることだからリアリティがある」とか「これだから世間知らずの医者は」だとか「守秘義務は大丈夫なのか?」だとかの、相手の立場にかこつけた記事と人格への反論やら賞賛やら中傷やらの声を寄せる人が多いのではないかと思います。
しかしながら、そこには「筆者は何を狙ってこの記事を書いたのか?」の視点が抜けていて、もし仮に筆者の狙いが「記事を読んだ連中がああでもないこうでもないと騒ぎあう姿を見ること」にあるのだとしたら、「大漁大漁!」と一人ほくそえんでいるかもしれず、まさしく「釣られた」以外の何物でもないわけです。
「筆者の意図まで考慮にいれて読む」という事は別に特別な事ではなく、「行間を読む」「新聞記事の裏側を読む」などと同列にあるもの筈ですが、中々どうしてそういった基本的な心構えさえ無しに世の中の情報に踊らされている人が思いのほか多く、日本と自分の将来に一抹の不安を感じたりするのであります。

熱心に反論や賛同のブクマコメやらトラックバックやらを寄せる人よりも、「オマエラ釣られすぎwww」と冷笑している人の方が、実際には「その記事の何たるか」を理解している場合も多いのではないかと思ったり。もちろん、冷笑などしていないで「逆に釣り返してやるわ!」位の気概を見せてくれる事に越した事は無いのですが。