http://d.hatena.ne.jp/matsunaga/20060313#1142201603
この記事を取り上げる事については、かなり悩みましたが、何度か「ことのは」の記事を引用・リンクさせてもらった身としては、やはり二言三言でもコメントするべきかな、と思い取り上げる事にします。参考リンクの類は、冷静な物が見つけられなかったので省略。
松永氏の文章をある程度読んでいた人間としては、氏は時折暴走もするけれども大体において偏見の少ない整然とした書き手である、と認識していて、それは氏がこのような告白を行った後でも変わらぬ評価なのですが、「過去に所属していた団体」が団体だけに、世間的な評価という意味ではそれなりに傷ついてしまったのではないか、とも思い。
もちろん私は、今後氏に対して「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という偏見的な見方で持って評価する、というスタンスを支持するものではなく、「過去は過去、今は今」であると思っています。ですが、ことかの団体の話題ともなると、過去・現在問わず被害を受けた方々はゴマンといるわけで。そうなると、氏が果たしてどこまでかの団体の意思決定に近いところにいたのかを明らかにしなくては、納得出来ない人も多くいると言う事になるわけで。
……しかしながら、氏の過去全てを明らかにするという行為それ自体が既に、社会罰的な側面を持ってしまうわけで*1。
「償えない罪はない」という言葉が有りますけれども、世の中にはやはり一生を掛けても償えない罪が存在するし、逆に大した罪でなくとも(多くは世間によって)一生許されないケースというのも存在します。
松永氏はそもそも「罪」を負っているのか? 負っていたとしたらそれは償える物なのか、償えない物なのか?
もし仮に氏が「償えない罪」を負っていたとしたら、「かの団体に関った全てを明らかにするべきだ」という意見は支持すべきものなのかもしれません。
しかしながら、氏が罪を負っていないor償える類の物で既に罰を受けているのだとしたら、「それでも全てを明らかにするべきだ」という声は、果たして正論といえるのでしょうか? それは、ただの「穢れ思想」の顕現であるように感じます。
(主張も何もまとまらない位脳がオーバーヒートしてるので、ここで終了。)
*1:かの団体に対する関わりが大きくとも小さくとも、それを明らかにする作業の過程で氏の評価が著しく(大概は野次馬の手によって)失墜させられるのは明らかであり、一度貼られたレッテルという物は、剥がす事が困難。そういった意味では、氏が自ら告白した事により、既にある程度のレッテルが貼られた事になるのだが。