たこわさ

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純潔マリア LIBER IV「MEMENTO MORI」感想

原作は半分くらい既読。
(以下ネタバレ)

あらすじ

エゼキエルの目を誤魔化しては戦場への介入を続けるマリア。だが、平和を願う彼女の思惑とは裏腹に、戦場を失い食い詰めた傭兵団が略奪集団と化すなど、悪影響ももたらす結果となっていた。
そんなある日、イングランドの魔女・ビブがマリアを訪ねてくる。彼女は、戦争を止められたことで、裏で暗躍する他の魔女や傭兵団が稼ぎを失っているとマリアに忠告する。マリアの平和をもたらすという目的にも、実際に弊害が出ている例を挙げ、価値観の押しつけでしかないと断じるビブに、マリアは上手く返せる言葉が見つからなかった。
エゼキエルも、近隣にペストで全滅した村がある例を挙げ、マリアは目に届く範囲でさえ救ったり救わなかったりしていると糾弾するが、そこにはマリアの悲しい過去が――。

感想

せめて目に届く範囲の人間は救いたいと願うマリアですが、ただ力を振るいその場の戦闘をやめさせるだけでは根本的な解決にならず、むしろ戦争で稼げない傭兵が略奪にはしるという弊害さえ発生しているという矛盾に、彼女も全く気付いていない訳ではないのでしょうね。もし、彼女が本当に地域の平和を守ろうとするのなら、利用するものは全て利用し(例えば教会や領主など)、更には乱暴狼藉を働く人間は例外なく皆殺しするという覚悟を見せ、エゼキエルが言ったようにある種の「神」――例えば自身が法律と裁定、刑罰の執行まで引き受ける存在――になる覚悟が必要な訳で。
そういう意味では、一時的には非常で冷徹にこそ見えるものの、絶対的な規律のもとでの「公平」を掲げる教会の教えは、長い目で見れば人々をいつか厳格な法が支配する世界へと導く結果になる訳で、徹底していると言えます。
もちろん、それで助かるはずだった人々を見捨ててもいいのか――神の教えにより自滅していった廃村の人々のように――という感情的な疑問は湧いてくるわけで。神の正義は絶対なのでしょうが、正義というのは「悪」を許さないし助けない絶対的な規律な訳ですし。
規律を守る為に犠牲になった人々、「善」を守る為に「悪」とされ切り捨てられた人々を見捨てられないからこそマリアは行動しているのでしょうが、はてさてどんな答えに辿り着けるやら。