たこわさ

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「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語」にみる「反逆者」の自己犠牲

君の銀の庭(期間生産限定アニメ盤)

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劇場観賞直後の感想は、こちら
以下「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語」のネタバレを含みます。


本作のラストで、ほむらは世界の概念「円環の理」と化したまどかによる「救済」を拒み、そしてかつて彼女が抱いていた願い――まどかはまどかのまま生きていてほしい」――を実現すべく、世界を自分の都合のいいように書き換えてしまいました。
ほむら曰く、「円環の理からまどかの記録と記憶の一部を分離しただけ」との事ですが、円環の理から分離されてしまったさやかがほむらを責めた事、街中に魔女の使い魔と思しき存在が溢れている事を見るに、彼女の作り変えた世界は全ての魔法少女を魔女になる運命――即ち「呪い」――から救っていたまどかの世界とは異なり決して少なくない数の「呪い」が救われぬまま彷徨ってしまっている世界だと推測できます。
全ては「まどかがまどかとして生きている世界」の実現の為に、かつてまどかが願った「全ての呪いを浄化する世界」を否定したほむらは自らを「悪魔」と称し、まどかがまどかとして存在できるのならば例え彼女と敵対する事になっても構わないとさえ考えている。それはあまりにも重く、妄執的な「愛」――あるいは究極の利己主義であるように見えますが、果たして本当にほむらは悪魔と化してしまったのでしょうか?
ここで私が思い出すのが「コードギアス 反逆のルルーシュ」シリーズの主人公、ルルーシュです。彼は最愛の妹が心穏やかに暮らせる世の中の実現の為だけに、一人世界に戦いを挑みます。しかし、様々な出来事を経て彼の目的は妹だけではなく、全ての平和を願う人々の夢の実現へと変化し、そのために行動するようになります。その為に彼が選んだ手段は、悪逆の限りを尽くし世界を統一した後、「正義の味方」によって自分が討たれる事で世界の憎しみを一身に受け、結果として世界に平和をもたらすという「自己犠牲」を伴うものでした。事を為すために、ルルーシュは本心を押し隠し、つとめて偽悪的な言動を貫き通しました。
一方、ほむらはどうでしょうか? まどかを一人の人間としてこの世に存在させるためだけに彼女は世界を再構成しましたが、それにしてはいくつかイレギュラーな要素が見受けられます。例えば、彼女の願いがまどか一人だけに向けられていたならば、杏子が同級生として暮らすという改変を行う必要は無かったはずです。それは、ほむらが魔女に堕ちる寸前に願ってしまった妄想世界の設定であり、元々の彼女の願いではありませんし、まどかが一人の人間として存在するために必要な要素ではなかったはず、他にも細かい部分はいくつか見受けられましたが、最たる例はさやかの存在です
まどかによってその願いを尊重され「円環の理」と一つになる事を選んださやか。ほむらがまどかの存在だけを願い、しかもまどかが転入生としてクラスにやってくるという新たな設定の中では、さやかの存在は決して必須なものではなかったはず。作中では「まどかの存在を円環の理から引き剥がす時に一緒について来てしまった」などと述べられていますが、実際にはほむらは「狙って」さやかを現世に引き戻したのではないか?
世界を自分に都合よく作り変えた事を糾弾するさやかに、ほむらはつとめて悪役ぶった言動を取りますが、それもさやかが「円環の理」から出戻って再び人間として暮らすこと後ろめたさを軽減するための偽悪的な行為だったとすれば……? 「コードギアス」でルルーシュが全ての悪を引き受けたように、ほむらも「悪魔」という絶対的な悪の象徴として君臨する事で、この世の全ての悪を引き受けたのだとしたら……かつてのまどかとは逆の方法ではありますが、その根本は同じ「自己犠牲」の思いの上に立っているのではないか。
以上のように、ストーリーを額面通りに受け取れば、ほむらは利己的欲求のみで世界を作り変えてしまった悪魔のように見えてしまいますが、それを一部否定するかのように散りばめられた数々の要素を、私は感じ取ってしまいました。思えば、TVシリーズも完結直後からやれハッピーエンドだバッドエンドだほろ苦い結末だ、などと各人の意見がぶつかり合っていた本作のこと。こうしてあーだこーだと我々が解釈を重ねる事は、見事に制作陣の狙い通りなのだろうな、などと思いつつ本稿を締め括りたいと思います。