たこわさ

アニメやゲーム、映画・本などのレビュー・感想・情報を中心にお送りする雑多ブログ。

劇場版「STEINS;GATE 負荷領域のデジャヴ」感想

遅ればせながら劇場で観てまいりました。
TVアニメ版が好きな人は観に行った方がいい。原作ファンなら、なおのこと観に行くべき。
(以下ネタバレ)
最終的な評価を先に書いてしまうと――非常に、非常に面白かったです。
思いの外きちんと「続編」として成り立っているな、というのが最初の印象。きちんとTVアニメ後(BD/DVD特別編含む)の話になっているので違和感なく作品世界に浸れました。
また、アニメ化されてなかった原作エピソード(無限サイクリング、残虐綯さん)も断片的にだけど登場していて、原作ゲームをコンプリートしている人向けの気配りも忘れていない、なんとも欲張りな構成でした。
そしてTVアニメ版で好評だったオカリンと助手の夫婦漫才も健在で、実に眼福。
そういった様々なニヤニヤ要素を包含しつつも、メインの筋立てはやはりシリアス。何せ、今まで視聴者・プレイヤーと共に観測者であり続けた岡部が「消失」してしまうわけですから。しかも、最初の「消失」が紅莉栖の目の前での事なので、その時点で観客は紅莉栖と共に絶望的な喪失感を味わうわけです。そしてそれが紅莉栖との一体感をも生み出し、見事に岡部から紅莉栖へと「観測者」のバトンタッチが行われ……。
ここからは怒涛の展開。困ったときのお助けキャラ、鈴羽の助言を受けながら岡部を取り戻そうと必死に足掻く紅莉栖。岡部が完全に破棄したはずのタイムマシン関連の「フラグ」が、まるで岡部の「消失」を修正しようとするかのように次々と蘇り、遂に紅莉栖をタイムリープマシンという答えまで導きます。そして、アニメでは初となる岡部以外によるタイムリープを敢行し、紅莉栖は岡部の「消失」前へと辿り着きますが……本当の試練はここからでした。
時間漂流の代償としていくつもの並行する世界線での記憶を持ち続けることになった岡部。そんな彼の存在は、収束するべき未来を持たないシュタインズゲート世界線において極めて曖昧な存在と成り果てており、たやすくシュタインズゲート世界線から別の世界線――鈴羽曰く、R世界線――へ移動してしまう。そして岡部がR世界線へ移動するとシュタインズゲート世界線では「岡部がいなかった」事になってしまう。もし彼を救おうとするならば、思わぬ歴史改変のリスクを承知の上で過去を改変する必要がある――無限とも思える可能性の中を彷徨いながら。沢山の可能性を殺しながら。
それは岡部がかつて辿った「孤独の観測者」の道を今度は紅莉栖が辿ることを示し、また以前と同じかもしくはそれ以上の可能性達を殺す事に繋がる。――そして岡部はそれを望まない。
かつて別の世界線で紅莉栖が岡部にそうしたように、「自分を諦めろ」と紅莉栖に告げる岡部――とんだ自己犠牲野郎ですがそれなら紅莉栖も負けていない。「科学者としての良識」「岡部の切なる願い」「今ある世界線とそれまでに犠牲となった数々の想いの為に」、様々な理由を付けて紅莉栖は岡部を、岡部は自分自身を諦める。
それでも、鈴羽の叱咤を受けて一度は岡部を救おうとした紅莉栖。未来の自分自身の未練が生み出したタイムマシンを使い、歴史改変を行わずに岡部の過去の記憶にシュタインズゲート世界線にだけ存在する強烈な出来事を刷り込む為に2005年へ――鳳凰院凶真が生まれた日へ――跳ぶものの、過去の岡部を死に追いやってしまうかもしれないアクシデントを目の当たりにし、岡部の言葉の重さを実感するだけの結果となった。
更に、絶望する紅莉栖に追い討ちを掛けるようにラボの閉鎖が決まる。遂に岡部が帰るべき場所さえも失われつつあった。
――もう諦めるしかないのか? そんな思いを抱いたまま無力感に打ちひしがれる紅莉栖。しかし、そんな彼女に差し伸べられる救いの手――あるいは悪魔の囁き――が。

紅莉栖ちゃん。オカリン、って知っている?

まゆりの中にも確かに存在していた「何かが足りない」という違和感。彼女の言葉がきっかけだったかのように、ラボメン達がはっきりと自覚する「誰かが足りない」という認識。自然とラボに集まり、ラボを閉鎖してはいけないと突き動かす正体の分からない感情。
ラボメン達が共通に抱く「いつかどこかで会ったあの人物」の姿――共有するデジャヴ。たとえ世界が岡部倫太郎を忘れようとも、ラボメンが彼の事を記憶のどこかで覚えている。なぜならば、彼は狂気のマッドサイエンティスト鳳凰院凶真」なのだから……。
そうして、ラボメン達に背中を押されながら再び2005年へと舞い戻った紅莉栖。また、過去の岡部を危険な目に遭わせてしまうのでは? という恐怖を抱えながらも、今度こそ自分の気持ちに素直に向き合い、遂に少年時代の岡部と出会う。そして――。
もう、この先の展開について書き表すべき言葉が私には見当たりません。強いて言うならば「助手は女神」で「オカリン末永く爆発しろ!」という所でしょうか?
ヽ(*゚д゚)ノ < カイバー
――もとい、閑話休題
さて、長々と書いてまいりましたが、上記のように、基本的には岡部と紅莉栖の物語ではあるのですが、ラボメン達にも重要な役割が与えられており、また続編という事で登場するかどうか不明だった鈴羽も思いの外がっつりと出番があったりと*1ファンの期待を裏切らない作品になっていたと思います。
作品の性質上、沢山の外伝的作品が登場しているシュタインズゲートですが、その中でも本作の出来は突出しているな、というのが私的な印象。
まだ未鑑賞の方は、劇場でオカリンと握手! 土曜日から一部の劇場で入場特典第二弾も配布されるようですよ? Orz←(それを知らずに第一弾が品切れした直後に観に行った哀れなタコプラ)
それでは、諸君の検討を祈る。エル・プサイ・コングルゥ

追記

何か適当に本作のネット上での感想を観て回ったら「TVシリーズが完璧だったので蛇足」とか「やる意味あったのかな」とかこのバカチンが! と思わずURL直リンク言及したくなるような声が多かったのですが、ここで突撃したら私の方がバカチンになるので続編をやる意味はあったか?という点について私的見解を追記することで溜飲を下げる。
で、本題。
私的には本作には続編として十分に意味があったと判断します。
何故ならばTVシリーズ&原作ではあまりにもEDが美しすぎて忘れられがちなんですが、実は岡部は自分自身の実在証明について曖昧なままEDを迎えているんですよね。*2
確かに紅莉栖が世界線を越えて自分との思い出を記憶のどこかに持っていてくれた、という事は岡部にとっては嬉しい事この上ない事実だったのでしょうが、それでも彼が孤独の観測者だという事実には全く変わりはなかったわけで。たとえ頭の片隅に他の世界線の記憶が残っていたとしても、岡部以外の人間はそれを実際の体験として覚えているわけではない、という事が既に原作で示唆されていますよね? まゆりのように「夢の中の出来事」として捉えていたりする訳です。「そう言われてみればそんな気も」程度の共感しか得られないのが、原作ED時の岡部な訳です。
言ってみれば、「岡部は自分が犠牲になって皆を救いました、めでたしめでたし」で物語が終わっていた状態な訳です。
でも、どうかそんな彼に救いを、せめて彼の苦しみをほんの少しでも分かち合える存在を、というどこかの誰かの切なる願いが具現化したのが本作であると思います。その結果がどうだったかは、本作をご覧になった方々には明白なことだと思うんですが……。
本作がなければ、岡部は自己犠牲野郎のまま終わっていた。それを女神紅莉栖が降臨して彼のすぐそばに立つ事を選んだ。そういう事でしょう?

*1:もちろん彼女はバイト戦士たる彼女ではないのでそこに一抹の寂しさは残りますが。

*2:ここでいう実在証明とは「アリバイ」の事ではなく、自分が今この世界に確かにいるという実感、端的に言ってしまえば他人と思い出を共有出来ているか? 他者によって観測されているか? という事だと思ってくだせぇ。