たこわさ

はてなダイアリーから移ってきました。暫くの間、レイアウトの乱れやリンク切れ等あると思いますが、ご容赦を。

「涼宮ハルヒの消失」を観て来ました。

いやいや、非常に面白かったです。
正直、観に行く前は期待半分不安半分だったんですが、十分に映画館で観る価値がございました。
映画としてはちょっと長すぎる気がしますが、TVシリーズから一本の線としてみるとやはり丁度良かったり。
(以下ネタバレ感想)
この「涼宮ハルヒの消失」の物語を一言で表すと、「キョンがデレる話」であると思います。
TVシリーズ第一期のエピソードにおけるキョンは、ほぼ一貫して「俺は巻き込まれたただの一般人」であるとの姿勢を崩してきませんでした*1。「視聴者の分身としての役割」が彼に与えられているという事が影響もするのですが、斜に構え「傍観者」を気取った「本気にならない男」であったと言えます。
SOS団の活動についても、「ハルヒに振り回される」「せめて朝比奈さんだけにでも累が及ばないようにする」「長門が何とかしてくれる」などと基本的に主体に立たない姿勢を貫き、彼自身が何かを成す側には決して回ろうとしませんでした*2
それが、TVシリーズ第二期「涼宮ハルヒの溜息」になると彼は彼自身の為に行動するようになり、そしてこの映画「涼宮ハルヒの消失」において、遂に彼は自らの意志で「当事者」として舞台に立つに至りました。

「なんてこった――俺はハルヒに会いたかった」
「俺は、SOS団団員その一だからな」
「楽しいに決まってる!」

これら台詞は、今までの斜に構えていた彼のキャラクターからは想像も出来ない、熱い想いの篭った言葉です。「憂鬱」のラストも偽らざる本心なのでしょうが、選択の余地を与えられていなかったあの時とは違い、今回は二つの選択肢の中から彼は「SOS団団員その一」である事を選んだ。あれだけダルそうに「付き合わされていた」日常をこそ、彼は欲した。
これはまさしく「デレ」そのものでしょう*3

一方、もう一人の主人公である長門
「地味で内気な文芸部員」長門の様々な仕草は、キョンじゃなくったって思わず赤面してしまいそうな破壊力を秘めていたし、彼女が世界改変を行ってしまうに至った理由も見事。
確か、原作だと「エンドレスエイト」の影響が大きかったような描かれ方をしていたように記憶しているのですが*4、本作ではどちらかというと「長門なら、長門なら何とかしてくれる!」というキョンの無責任な依存に対するしっぺ返しとして描かれているように感じました。

今までのキョンは、長門の事を多分「便利な道具で助けてくれるドラえもん」としては捉えていても「SOS団の仲間である長門」としては捉えていなかった。つまり、対等の存在であると認識していなかった。依存し、頼りきり、責任さえもすべて押し付けてきた。その代償として彼女は「壊れて」しまった。
キョンは恐らくこう感じたでしょう、「自分の責任だ」と。今までのトラブルはハルヒや他の団員達がトリガーになっていましたが、今度の場合は実行犯は長門でも、その原因はキョン自身にある(と少なくとも彼は思っているはず)。
他の誰でもない、キョン自身が原因であり、そして彼自身で解決しなくてはならない。そして彼は深い内省の果てに、自分自身が「当事者」である事を選択し歩き始めました。
だから、元の世界に帰還したキョン長門の事を「仲間」と呼び、彼女にピンチが訪れるようなら、今度は自分とハルヒで必ず助ける、と強く宣言します。何故ならば、彼はSOS団の団員その1だから。
そして長門も、キョンに「ありがとう」という感謝の言葉を――任務とかそういった事を関係なく彼女自身の感情で――返す訳です。「SOS団の仲間」だから。
二人はここにきてようやく、真に「SOS団の一員」になったのかもしれません。
そんな訳で、本作はキョン長門の「成長物語」でもあると思うのですが、一部のファンにとってはその「成長」は多分苦痛で、でもそれこそが原作者やアニメ制作者の狙う所なんだろうな、と思ったりなんかしつつ、この感想なのか解説なのかよく分からないエントリーを閉じたいと思います。

*1:涼宮ハルヒの憂鬱」最終エピソードは除く

*2:問題解決の為に奔走してるが、それは結果的にそうなっただけであって彼の主体性の賜物ではない。

*3:なので、終盤でキョンが寝袋状態のハルヒの髪や顔、唇を優しく撫でるシーンを物凄くニヤニヤしながら観ていました。俺キモイ。

*4:読み直してないので違うかも……。