たこわさ

アニメやゲーム、映画・本などのレビュー・感想・情報を中心にお送りする雑多ブログ。

「過剰なもの」が足りない

http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1348005.html
スレの流れは放っておくとして、記事に引用されている富野御大のお言葉から、私は「ミステリ」という作品ジャンルについて思いが巡りました。
「ミステリ」と言うジャンルは、テレビドラマや小説・漫画で日々量産されている事からも分かるように、ある種「萌え」よりもテンプレート化が著しいジャンルであると思います。
いくつか例を挙げると、

  • 「大富豪の建造した怪しげな洋館で巻き起こる恐怖の連続殺人」
  • 「吹雪で孤立した山荘で繰り広げられる密室惨劇」
  • 「警察がさじを投げた難事件を名探偵が華麗に解決」
  • 「古い因習の残る村で、村に伝わる伝説になぞらえた連続殺人が」
  • 「謎の死を遂げた上司の足取りを追ううちに、刑事達は意外な真実に辿り着いた」

――など等、ほんの一部ですが、それでも年に何回かお目にかかるあらすじが含まれているのではないでしょうか? もちろん、細かい設定や犯人・トリックは異なるでしょうが、世間に出回っている自称「ミステリ」の多くは、既に出来上がったテンプレートの上に成り立っている事が多いと思います。
そういった作品の多くは、一部ミステリマニアからは「量産」と蔑まれる事も少なくありませんが、それでも中には「教科書通りの折り目正しいミステリ」と評価される作品が出る事もあり、中々バカに出来るものでもありません*1
これらテンプレートに則ったミステリは、ある意味「マジメ」な作品であるとも言えるでしょう。先人達の創り上げて来た「ミステリ」という枠組みを懸命に保持しようとした結果、出来上がった作品。そういった見方をする事も出来ます。
それは決して悪い事ではありません。ただ、「枠組みを保持する」と言う事は「枠組みを超えたものは生み出さない」という事でもあります。どれだけ折り目正しく丁寧に作られていても、決して「今以上」にはなりません。そして、ミステリの歴史を顧みると、「転換点」となった作品の多くはテンプレートを踏襲しながらも、「その枠組みから確かにはみ出る何か」が盛り込まれている事が殆どであるように見受けられます。
例えば、綾辻行人の「館」シリーズのように、従来ミステリのテンプレートを積極的に多用しながらも、それらを覆い隠すような「過剰なもの」に溢れる作品や、我孫子武丸の初期作品のように、「陰鬱とした前時代的世界観」から「明るく無機質な現代的ミステリ観」への転換を目指したものなど*2。いずれも、先人達が作り上げたものに敬意を払いつつも、「何か」が決定的に異なる作品に仕上がっています。
それら作品も、当初は「こんなのミステリじゃない*3」といった批判に晒される事も多くあったようですが、今日では「新本格」と呼称され、それ自体が現代におけるテンプレートにさえなっています。
元記事の話に戻りますが、「萌えアニメ」と一口に言っても、実に様々な形態がありますしそれ自体が「悪い」とは御大も言っていないように見受けられます。ただし、それらは「テンプレート」に則って作られているだけ。きっちりきっかり折り目正しく作るのは、それはそれでマジメで悪くはないんだけれども、「それ以上のもの」にはならない。それは結局今現在の自分に満足してしまっている事だ=だから「作り手として悲しい」と仰っているのだな、と感じました。
多くのファンに支持される作品を作り上げても、決してそれに満足しない、むしろそれを否定して反省して次なる作品への踏み台とする、あくなき挑戦の姿勢を貫く御大が言ってこそ、重みのある言葉になるな、と思う次第*4
まあ、「萌え」は本来、ミステリのようにある種のギミックをさす言葉ではないので、「その先」に待つものは似ても似つかないものになりそうですが*5

*1:ただし、「教科書通りのミステリ」が斬新さ=ミステリの肝の一つである「気持ちよく騙された」感に欠けるのも事実。

*2:もっとも我孫子氏自身は明るくポップな雰囲気から暗く淀んだ雰囲気まで幅広く書けるタイプの作家さんですが。

*3:この批判を一番多く受けたミステリ作家は京極御大のような気もしますが。

*4:どっかの作品批判されたら「お前等が理解できてないだけ」とか仰った監督夫妻とは大違いです。

*5:それさえも「作品として成立するはず」とは御大の弁ですが。