たこわさ

アニメやゲーム、映画・本などのレビュー・感想・情報を中心にお送りする雑多ブログ。

出崎統監督怪気炎!? 何だか釣り臭いインタビューに思うこと

注:下記リンク先記事及び本記事にはPCゲーム「CLANNAD」及びそれを原作とした二次作品の重大なネタバレを含みます。

(以下、ネタバレ)
まず、前提としまして何点か。
出崎監督については、監督の沢山の作品の中のごく一部ではありますが、子供の頃から楽しく観させてもらっていますし、間違いなく「尊敬するアニメ監督の名を挙げよ」と問われた場合に、その名が入ってくる位に評価している人物です。
他方、今回インタビューの中で槍玉に挙げられている(?)PCゲーム「CLANNAD」に関しても、少なからず愛着を持つ作品であり一定以上の評価をしている作品となります。
そして、今回のこの記事に対して、感情的理性的問わず沢山の反論が寄せられていて、その多くがインタビュー中における「CLANNADへの出崎氏の批判」に対する批判のように見受けられ、それら意見にも違和感を感じたしこのインタビュー記事自体にも何か違和感を感じましたので、少々まとまりが無いながらも自分なりにコメントしていきたいと思い、筆を取りました。ちなみに、劇場版「CLANNAD」は諸事情で未見なので、そこについては言及しません。
上記の前提を踏まえて、以下本分となります。

アニメ感想ブロガー批判?

(前略)いまはほとんど触れないもんね。どこかのサイトで遠くから、名前を隠して石を投げてくるようなことばかりやってるんでしょ? おまえら出てこいよ、と思うけど、出てこないよね。

前後が省略されているからなのか、一体どこら辺の事を揶揄しているのかが不明瞭ですね。水島監督*1みたいにある程度ターゲットを絞っているのなら分かるけれども、何だかここら辺のくだりだけ読むと「ネット文化全体を馬鹿にしている(下に見ている)」感がにじみ出ているように見受けられるんですが。
もしブログでアニメ感想・批評やっているような人々(私も含まれますが)全体に対して、出崎監督がそういった認識を持っているのだとしたら、非常に悲しいことですね。普通のアニメ好きが「自分はこう考えたんだがどう思う?」とか「面白かった/つまらなかった」という純粋な気持ちをネットというツールを使って発信できるようになった「だけ」の事であって、アニメファンの本質というものがネットの無かった頃とそれほど大きく変わったわけじゃないと思うんですよね。決して「批評家もどきが匿名で陰からアニメ制作者を攻撃している」という図式ではなく、単純に「普通のファン」の声が表立つようになっただけだと思うんですけどね、影響の大小はあるでしょうが。*2
もし出崎監督が私が捉えた様な意味合いでこの発言をされているのでしたら、一アニメファンとしては非常に残念な事だと思います。

原作付きアニメ制作に対する姿勢について

──『Genji』についてひとつ訊いておかなければならないことがあります。『あさきゆめみし』から企画が変更された件(記事参照)について。

【出崎】あれオレがイヤって言ったのでも、なんでもないんだよ。いろいろ意見の相違があって、一度は「じゃあオレ辞めます」って言ったんだから。(中略)
──何が問題だったのでしょうか。

【出崎】要するに、OKをもらっていた脚本とオレの絵コンテの内容がちがっていたんですよ。最終的な映像を作るために、シナリオはある種のロケハンだと、思っているんです。文字で書いてみる。映像にするためには、あらゆる可能性を考えて、7稿も8稿も書く。ホンがそこへの道しるべをある程度つけてくれている。でもシナリオで一所懸命論理を追ってもらって、その論理を越えたところに何かがあるぞとぼくは思ってるから、絵コンテを書くときに結局はシナリオを使わないかたちになってしまう。

こちらも大胆な編集がなされているとしか思えない発言な訳ですが……。『あれオレがイヤって言ったのでも、なんでもない』と『一度は「じゃあオレ辞めます」って言ったんだから』って完璧に矛盾した発言ですよね?
脚本と出崎監督の絵コンテが違っていた云々については、「良い意味での原作改変」の数々を見せ付けてきた出崎監督ファンとしては、彼を擁護したい所なんですが、残念ながらその論理が通じる局面というのは、原作付作品であれば、アニメじゃなくとも映画や舞台だって、非常に少ないんですよね、実際。
(小説や漫画、ゲーム等の)原作付き作品の映像化に求められるのって、やはり多くは「原作の雰囲気をいかに再現できるか」というところのはず。既に固定ファンが付いてますから、商業的な意味合いにおいても、作品評価的な意味合いにおいても、それら層を「納得」させないと良作の称号を貰う事は難しい。
ただ、ここで誤解しちゃいけないのは「ならば原作通りであれば評価されるのか」といったら、決してそうではないということ。構図から台詞から原作を忠実に再現してみても、映像作品としてしっくり出来上がっていないと、やはり「駄作」の烙印を押されがちです。あくまで「雰囲気」の再現こそが原作付きアニメに求められた至上の命題であると思います。
具体的な例を出せば、数年前に大ヒットを飛ばした映画「ロード・オブ・ザ・リング」三部作などは、「原作に忠実」ではあるけれども「色々と原作と違う」ストーリーになっていましたが、原作ファンからもそうでない人々からも高い評価を得ていました。それは映像作品として優れていたのと同時に、原作の持っていた世界観を全力で再現する事に努めたからでしょう。*3
そして出崎監督の手法は、それらとは正反対だった、というだけのお話なんでしょうね。
これはもう、どちらがいいとかの話ではなく*4、単純にクリエイターとしての性質の問題だと思うんですよね。言ってみれば、出崎監督のように原作を翻案して昇華させるのが得意なクリエイターもいれば、あくまで原作の雰囲気を忠実に再現した上でそこに自らの表現を織込んで完成させる事が得意なクリエイターもいる。前者が食材を調理法で圧倒する洋食シェフだとすると、後者はあくまで素材の味を活かしその中で自分の技を使い切る和食板前と例えられるでしょうか。
洋食シェフと和食板前のどっちが上か? なんて論じても始まらないのと同じでそこに優劣は無く、ただ原作付きの場合ファンにとって敷居が低いのは後者である、という事なんでしょう。
ただ、

【出崎】そう。原作から映像に変わっていくときに「ええ、こんなものができるの?」という驚きがあるのは、すごくいいことだと思うんですよね。それは原作が持っているキャパシティ、すごさだと思うし。深みへ入っていくこと、広げていくこと、それがぼくらの仕事だと思うから。ぼくはそれをマジメにやっただけなんだけど、マジメすぎたのかなぁ。原作がこうだからアニメ的な面白さを捨てて原作通りにします、とは言いたくなかった。

──そこに目を瞑る不誠実はできなかった。

【出崎】できないですよね。そういう作り方は、少なくともぼくはできないから。

という発言だけ切り取ってしまうと、あたかも出崎監督は「和食板前」タイプのクリエイターを見下しているように見受けられてしまうのですが、本当のところがどうなのか、非常に気になる所です。

CLANNAD」に対する批判?

多分、オタ界隈の人が一番気になったのは以下のくだりだと思います。

──いま、違和感をおぼえることはありますか。

【出崎】『CLANNAD』をやっているときに、この子(ヒロイン)なんで死ぬの? って訊いたんです。そうしたら「ゲーム上死なないとね、泣けないんですよ」って答えられた。一見シリアスなんだけどさ、オレから見るとちゃんとした根っこがないんだよね。現象としてそういうのをやれば客は泣く、それがわかっているだけで。だから映画にするときは、どうして死ぬのか、少なくとも心の流れだけはきちんと作っていこう、と。で、その死に対して、ちゃんとそれを感じる人間を登場させようとした。それは当たり前。当たり前のドラマを作っただけなんです。「ここで死なないとゲームとしてマズイんですよね」。それは、視聴率だけよければいいや、というのと似ている。「とりあえず殺せば泣くんだよね」というのは、人間を甘く見ている。甘く見ているし、でもそれで通用する部分があるっていう世の中はなんかヘンだよね。とってもヘンだよね。

私は上記のくだりを読んだとき、激しく混乱しました。
「ゲーム上死なないとね、泣けないんですよ」
この言葉がKeyのスタッフから出たものだとは、どうしても思えないんですよね。*5
そりゃあ、key系の作品って設定的には、近親の死とか不治の病とか障害とか重い家庭の事情だとか、なんというか「あざとい」もっと酷く言えば「不幸による泣きを前提とした」要素が多くて、ファンである私なんかからしても「はぁ?」と思うような所は多々あります。
ただそれは、あくまで設定とか全体の構造とか、作品全体を単純化して見た時に目立つものであって、語り口=物語としては結構ちゃんと道筋と感情を踏まえて進んでいる事の方が多いんですよね*6
それが特に顕著なのがCLANNADであって、実は「ヒロインの死」って物語全体としては通過点に過ぎず、本当のクライマックスはその後、なんですよ。「死んだ→悲しい」じゃなくて、「死んだ→悲しい→立ち直れない→でも人生は続いていく→強くならくちゃ→現実は厳しい、でもその中で生きていく」という、ヒロインが死んでしまった後の方がむしろ重要場面として描かれている構造になっている。何故ならば、描くべきは「人生の縮図」であったから(と私的には考えていますが)。
「泣かすための死」であれば、それをクライマックスに持ってくるはずであって、それはCLANNADという作品の構造からは大きく乖離していると言えます。
しかも、出崎監督はインタビューの中で『だから映画にするときは、どうして死ぬのか、少なくとも心の流れだけはきちんと作っていこう、と。で、その死に対して、ちゃんとそれを感じる人間を登場させようとした。それは当たり前。当たり前のドラマを作っただけなんです。』と仰っているんですが、原作ゲームをプレイされた方は分かると思うんですが、ヒロインの死への伏線*7だとか、それに対する周囲の人間の感情だとか、元々かなりセンシティブに描かれているんですよね、原作でも。それなのに何故、上記のような発言が出てきてしまうのか?

残念ながら、手元及びネット上で信頼にたる「出崎監督は原作をプレイしたのか? したとしたらどの程度の話まで熟知しているのか」という資料が見つからなかったのですが、こうなると思い浮かぶ答えは一つ。
「出崎監督自身はプロット程度でしか『CLANNAD』の原作を知らず、そしてそのプロットや原作サイドのスタッフが歪んだイメージを監督に植え付けてしまった結果がコレ」なんじゃないかと……。

最後に

この手のインタビュー記事って、場合によっては悪意的な編集もされているし、全てを鵜呑みには出来ません。しかしもし、元記事の発言全てが出崎監督の「真意」だとすると、一ファンとしてはかなり悲しい所です。
また、主にmixi内だったかと思うのですが、この記事に対して感情的に反論している鍵っ子の皆さんは、上記の「監督に伝えられた『CLANNAD』像がそもそも歪んでいたんじゃないか」説も考慮に入れていただいて、出崎バッシングの手を緩めていただければ、出崎・Key両者のファンである者達の一員として幸いです*8
以上、長々とまとまりがありませんでしたが、ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。ご意見・ご感想頂けると更に幸いです。ただ、名無しで石を投げるのだけはかんべんなーw

1/15追記

ちょっと言葉足らずなので補足すると、「そもそも釣り臭いタイトルからして、悪意的編集で『萌えを叩く出崎監督』を演出した記事なんじゃないの?」という疑惑も前提に含めた上で書いております。念のため。

*1:ガンダム00の監督

*2:もちろん、2ちゃん等で脊椎反射感想・ネタとしてのアンチ発言を書いている方々はこの限りではありません。

*3:戸田先生の素晴らしい超訳は除く

*4:商業的・原作ファン的には出崎節はNGでしょうが

*5:キャラクターの死ぬ理由に対してこんな答えが返ってきたら、少なくともまともなクリエイターならば失望を隠せざるを得ないと思いますし、きっと私も失望します。

*6:「事の方が多い」という事はそうじゃないものもある、と感じているという事です。例えばKanonの真(ry

*7:彼女の性格上その選択をするだろうな、とプレイヤーに自然に思わせる人物描写など

*8:根拠が薄い上にmixiでバッシング記事書いてる方々がそもそもうちのブログを見ることがあるのか、という悲しい事実はとりあえず忘れておきます。