たこわさ

アニメやゲーム、映画・本などのレビュー・感想・情報を中心にお送りする雑多ブログ。

「オタク」は死んだのか?

http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1121885.html
何か今更何か書くのも遅きに失するなぁ、とか思っていたんですが、とある筋から無言の圧力を受けたので仕方なく筆を取りました。
とはいえ、この岡田氏の「オタクは死んだ」論に対しての私のスタンスは、約2年前に書いたこのテキストから変わってないので、同じ事に繰り返しになりますが……。
さて、本題に入りますが、私的には岡田氏の言っていることは、開拓民が発展した都市に住む人々に対して「俺の時代は、家から畑から道から文化から、何もかも自分達で作り出して発展させてきたんだ。なのに今の若い連中は整備された都市の中で流通するものだけで満足している、フロンティアスピリッツを失い仲間意識も失った」と主張しているように受け取れてしまうんですよね。
「見渡せば無限の荒野」であった岡田氏世代のオタク達と、「生まれたときから整備された都市の中に生きてきた」それ以降のオタク達とでは、価値観はもちろんのこと「自己確立」のプロセスも「仲間意識」も大きく異なってくると思うのですが。既に、岡田氏達が築いてくれたオタク都市の基盤があるからこそ、今のオタク文化の形態が成り立っている、とは考えられないんでしょうかね?
既に整備された都市機構があるのだから、わざわざ新しい土地を1から開拓する必要はありません。都市に生まれた若人達の多くは、都市をより良いものにしようと新たなコミュニティを形成し都市の中で生きていく。それは、それほど悪いことでしょうか? もちろん中には今の都市に満足できずに、新たな開拓地を求めて旅立っていく人々だって、少数ながらいるわけですし。
岡田氏は「オタク同士の持つ共同意識が死んだ=オタクは死んだ」という事を著書の中で主張しているわけですが、既に「オタク」という人種は単一の意志だけで統一されるほど単純かつ小さな存在ではなくなっているわけで。開拓時代は人数も少なく外敵に囲まれ団結する必要がありましたが、開拓の甲斐あり国へと発展したオタクコミュニティが更に発展するためには、単一の意志で固く結ばれた団結は、むしろ邪魔になるわけで。
「共同意識」は死んだのではなく、その内に多様性を内包するためにより大きく曖昧な概念へと昇華した、と考える方が自然ではないでしょうかね?
多様化を受け入れられない文化は衰退する運命にあります。一般化されることによって、文化はその本質が見えにくくなっていきます。しかし、だからこそ従来の型に囚われない発展が可能になっていきます。
成熟した文化においては、一人の人間の価値観だけを至上とするような行為は困難であるのが常です。岡田氏も、そういった所をわきまえて欲しいものですが……。
――とまあ、色々えらそうに書いている私も、テレビとかで萌え萌え恥ずかしげもなく連呼しているようなものが「オタク」だというなら、そんなの死んじゃっても構わないとか思っちゃっている、「取り残された古いオタク」になりつつあるんですが(オチ)。